ネッシー狩りの夜

ヒマだとろくなことをやらない20代ニート。

ルーズリーフと三千里

 今日やったこと。

 耳かきを買いに行った。

 ルーズリーフを買った。

 やることリストのテンプレートを作った。

 

 ルーズリーフがあまり好きではない。

 私は雑な性格なので、ああいった情報が一枚一枚ばらばらになってしまうものが苦手なのだ。

 けれど、小説やTRPGのシナリオのプロットを書く際は、付箋を使っている。

 付箋とルーズリーフの何がちがうか。

 この場合の私が付箋を使う理由は、「ひとつの紙にひとつの情報しか書けない」という制限があるからだと思う。これならば管理しやすい。なくなったとしてもたかが情報一つ、思い出せるうちにまた書いてしまえばいい。

 ところがルーズリーフとなるとそうはいかない。

 もっと大量の情報がそこには記されているものだから、一枚失われると、復元が難しいのである。

 通常のノートであれば、落書き帳だとかそういった装丁のものでさえなければ、概ね、ばらけたりしてしまうことはない。

 

 けれど、いろいろ印刷したものをまとめるのにはやはり、ルーズリーフに印刷してまとめてしまうのがいい。

 そういうわけで今、プリンターがフル稼働している。

 

朝の散歩

 今日やったこと。

 散歩。

 洗濯。

 米を炊いた。

 筋肉トレーニング

 

 このところ、何時に眠っても4時頃に目が覚めてしまうということがまた起きている。

 実質五時間程度しか眠っていないので頭が重い。

 浅い眠りの中を一時間揺蕩って、嫌な夢を見ている。

 最近はあまり夢を見ていなかったのだけど、たまに夢を見るとひどく頭が疲れてしまう。

 

 朝、起きて、散歩をしにいった。

 昨日の台風の影響がどのくらいだったか、軽く見て回った。

 屋根瓦や、窓枠の一部が倒壊しているところもあれば、何かが飛んできたのか、あるレストランのショーウィンドーは蜘蛛の巣のようなヒビで飾られていた。

 散らばった葉っぱは、秋の落ち葉のようにアスファルトの上に積もっていたけれど、特に家がまるまる一戸倒壊したと云うのはなかった。

 

 酷いのは寺社仏閣のほうである。

 比叡山平野神社など、建物が倒壊したり木が倒れてしまっているところがいくつもあるらしい。

 下賀茂などは糺の森があるから、特にひどい様だ。

 

 所用で神泉苑の近くを通ったときも、木々は折れ、灯籠がすっかり崩れているというありさまで、コンクリートジャングルに比べていかにも脆いそれらの対比に何とも言えない気分になった。

黄昏

 今日やったこと。

 ハンバーグを作った。

 

 犬が吠えている。

 今日は関西地方に台風が直撃して、大阪のあたりはとにかく風がすごかったらしい。

 アパートの窓ガラスが、どこかから飛んできた屋根の一部がぶつかったせいで粉々に割れたり。

 駅や、店が火事になったり。

 停電も断水もあったという。

 幸いにして、私が住んでいるところは特にはなにもない。

 もっとも、あくまでそれはこのベランダから見える範囲内でのことだが。

 明日、散歩がてら、なにかあったか見てこようかと思う。

 

 台風が来るとわけもなく心がときめいてしまうという話は、たぶん、前にもどこかで書いた。

 今日の私は、わくわくこそしていたけれど、低気圧による頭痛のせいでしばらくダウンしていた。

 机の下に頭を突っ込んで、怯える猫のようにそこで眠っていた。机の下に入るのは昔からの癖だった。姿を隠したい時、考えをまとめたい時、その暗がりにいると心が落ち着いた。

 

 救急車のサイレンが鳴っている。

 もしかしたら、街のほうではなにか甚大な被害があったのかもしれない。

 

 

『おとうさんがいっぱい』と就活

 今日やったこと。

 買い出し。

 洗濯。

 筋肉トレーニング

 

 生きている希望が見いだせないのは毎度のことながら、今日は特にひどいと思う。

 

 『おとうさんがいっぱい』という小説(児童向け)を初めて読んだ。

 ある日、「ぼく」のおとうさんが物理的に増えてしまうという話。

 二人どころか三人に、そしてそれは「ぼく」のいえだけではなく他の人の家の「おとうさん」も増殖してしまって…という、ブラックユーモアというかホラーというか、そんなテイストの話だった。

 当然、本物の「おとうさん」はいったいどれなんだという話になるわけだが、それが、筆跡にしても記憶にしても、すべてがすべて一致しているのである。

 結局、どれが本物なのかわからないまま、「ぼく」はおとうさんがいっぱいいるという生活に慣れていく。おとうさんたちはローテーションで仕事に行ったり家事をしたりと、割と快適そうだ。

 しかし、とうとう大臣や警察官までも(彼らも当然人の子なので、なにがしかの「おとうさん」である人は多いのだ)が増殖してしまい、政府は、「お父さんをもとの一人に戻す」という決まりを作る。

 さてどういった方法で、元の一人を割り出すのかというと、なんと面接なのだ。

 突然の就活である。

 ますます就活っぽいのが、「ほんもの」ではなくて、「よりよい」個体をその増殖したおとうさんの中から選べと云うのである。

 いよいよ就活である。

 そして、その面接官は誰なのかと云うと、「ぼく」だ。

 当然だ、「ぼく」が今後いちばん「おとうさん」と接する時間が長いのだから。

 おとうさんは、「ぼく」にたいして必死にアピールをする。

 読んでいる側からすると、どうしようかなと彼らの話を細かく聞きたくなるのだが、「ぼく」はそうではない。

 なんとあみだで決める。

 そして、選ばれなかった「おとうさん」は政府の役人に連れられてどこかに行ってしまう。殺しはしないだろうが、おそらくまともな生活ではないのだろうという予感がなんとなくする。昔だったら施設とかにまとめて収容しておくのかもしれないが、現在であれはおそらくこういった、「選ばれなかったお父さん」は、労働力のひとつとして使われるのではないだろうか。しかもかなりの低賃金で。

 というのはまあ私の妄想なのだが、実は、この『おとうさんはいっぱい』は『絶望図書館』というアンソロジーに収録されていたものであり、その中の「人が怖い人へ」という項目のところに置かれていたのである。

 

 どうして、人間を怖がる人にこの物語を薦めたのだろうか。

 いまだに少し考えている。

 

銭湯

 今日やったこと。

 ある本屋さんに行った。前から行きたかったところだった。

 一時間程度歩いた。

 

 私の住んでいる地域には、銭湯が多い。

 少なくとも三軒ぐらいはある。

 銭湯に行ったことはないけれど、「湯」と書かれた暖簾を見るとわけもなくわくわくしてしまう。

 『千と千尋の神隠し』を思い出すからなのか、あるいは原風景をそこに見るからなのかわからない。

 富士山の絵や、瓶に入った冷たい牛乳。

 青いタイル。保健室にあるような体重計。

 まだ小さい子に、ばんざいをさせて肌着を着せるお母さん。

 タオルを巻いたまま扇風機に当たっているおばさん。

 それらは銭湯で見たものではなくて、温泉に行ったときなどに見た光景のつぎはぎなのだけど、銭湯の前を通るたびに、そのイメージが走馬灯のように頭の中を流れていく。

 湯気と共に、記憶が共有される感覚。

 

 お風呂のにおいは好きだ。

 

三角コーン

 今日やったこと。

 本を売った。

 筋トレをした。

 プリンターのインクを変えた。

 

 三角コーンで、ビニールテープのしましまがあるのとないのとがある。

 たしか、軍服とかで、襟や袖のラインの本数が多ければ多いほどえらいというのを見たことがあるけれど、それと同じようなものなのだろうか。

 三角コーンですら階級社会である。

筋トレについて

 昨日やったこと。

 体幹トレーニングをした。

 買い物に行った。

 証明写真を撮りに行った。

 

 二日に一度、軽い筋力トレーニングをしている。

 あまりにも体力がないので、少しでもその足しになったらと思って始めた。

 効果が出ているのかどうかはわからなくて、気休めと云うのか、一種の祈りのような気持で腹筋をしている。

 少しでも体力がつけばいい。

 

 最近はちょっと夜更かしをするとすぐにその日は一日使い物にならなくなってしまう。

 バリバリの朝型人間なので(家系的に)、夜にえらく弱いのだ。

 私の嫌なところは日が高いと眠れないところで、いつでもどこでも眠れるというのは才能なんだなと常に思う。

 のび太君は思っているよりも優秀な人間なのだ。