知識の中
昨日やったこと。
DVDを見た。
料理をした。
タオルケットを洗った。
枕カバーも洗った。
クッションカバーも洗った。
色塗りをした。
Twitterに苦しんでいる人がいる。
たくさんいる。
それは、自分が望んで苦しんでいる人たちを探しているからに過ぎない。
ニートになってから少し成長したと思うのは、ジェンダーとかフェミニズムとか、そういったことに触れられたというところだった。
就職活動に絶望していた時期(今もだがこの時ほどではない)、Twitterの検索欄で必死に、どうしたらいいかを探していた。
あとは恨みの矛先だ。
こんな就活システム馬鹿げてるとか。
どこにも行き場所が決まらないまま卒業したら、そのあとどうすればいいんだろうとか。
みんな、研修とかどうなんだろうとか。
研修内容があまりにも異様で、ギリギリの時期に内定を蹴ったという人の話を見ると、
「ほら、やっぱりこんなのおかしいんだよ」
「誰も信用なんてできない」
と思った。
一匹の虫が畸形だったから、他の虫もみんな畸形なんだと思うような馬鹿げた考えなのだけど。
それでも、一度植え付けられた不信感と云うのは、いつまでも根を張って消えることはない。
そんな中で、ふと、日常の違和感について呟いている人を見かけた。
今は、それが誰のどういったツイートであったかは覚えていないけれど、たしか、女性のコミュニケーションコストについてのツイートだったのは覚えている。
そこから少しずつ、そういった、「女性」の抱えるものについてのツイートを見るようになった。
すると、世界の見え方が変わった。
大好きだった映画が見られなくなった。
大好きだった曲が聞けなくなった。
アニメやゲームの在り方について、違和感を覚えるようになった。
それらの底に流れる、うっすらとした(あるいは直接的な)女性蔑視の空気に、もはや耐えることができなくなっていた。
そしてそれらを無邪気に楽しんでいた自分、無邪気に創作していた自分はいったいどれだけの人を無意識に傷つけていたのだろうかと、怖くなった。
こういう見方や考え方は、たぶん、ニートにならなかったら、一生触れることがないか、あるいは興味すら持っていなかったかもしれない。
きっかけはほんの些細なことだった。
不安を打ち消すように読みふけらなければきっと気づかなかった。